電動アシスト自転車で巡る四国八十八箇所 番外編 12月11日 高野山へお礼参り(新今宮から奥の院)

  前日は、岐阜県の可児市に行き、同市で行われた文芸祭の賞状(「第三十一回可児市文芸祭」俳句部門優秀賞受賞 (lesserkumaneko.blogspot.com))をいただき、大阪は、地下鉄御堂筋線の動物園前駅近くのホテル中央ブリッジに17時ぐらいにチェックインした。18時過ぎまでホテルでぐったりして、南海本線の新今宮駅を確認するのと食料買い出しのため外出。


大通りしか歩かなかったが、色々な国の人が歩いており、路上に座り込んでいるホームレス風の人もいた。簡易宿泊所や生活保護と書かれた看板もあり、作業用品店やコインロッカーもあちこちにあった。後で調べたら日本三大ドヤ街(東京の山谷、横浜の寿町、大阪のあいりん地区 日雇い労働者が多く集まる場所)の端を歩いていたことがわかった。とりあえず、駅で明日の電車の時間を確認し、少し先のスーパー玉出でサラダ寿司セット等購入し、まっすぐホテルに戻った。

本日は、5時半起床、6時10分ホテルを出発、まだ、暗い。路上には、ここで寝たのか道端に座り込んでいる人もいた。運賃は、ケーブルカー代込みで1,430円。6時31分発橋本行きに乗車。朝早いせいかどうか分からないが、乗客はほとんど中年の男性。夜勤明けだろうか。日の出とともに列車は山の方へ、紀見峠駅で明るくなった。峠と言っても、人家はけっこうある。7時18分橋本着、4分で極楽寺行きに乗り換え。ここからは、2両編成で座席もクロスシートになる。小学生が二人乗ってきた。橋本を出て、少しして九度山駅があった。九度山は真田昌幸と真田幸村が関ヶ原の戦いの後、隠棲した場所で、駅名に六文銭のマークが描かれている。

 九度山駅を過ぎると、列車はぐんぐん高度を上げて行く。各駅のホームの駅名標には、標高も記されている。上古沢駅は標高230m。

 車窓からの風景。谷に張り付くように集落がある。

 橋本駅行きの列車とすれ違う。紀伊細川駅は、標高363m。

 8時6分、終点の極楽寺駅着。

 ケーブルカーの駅は極楽寺駅構内にあり、5分で乗り継ぎである。

 ケーブルカーは、ボックス席で各ボックスにはすべて人が座っていた。


 離合するケーブルカー。

 高野山駅が見えてきた。

 8時16分高野山駅着。駅の外は、バスが駐まっているだけで高野山らしさがない。ここからは、南海りんかんバスに乗って行くそうで、目的地の奥の院行きは、後3分で発車するとのこと。とりあえず、トイレに行って走ってバスに乗り込む。気ぜわしいこと、この上ない。バスはしばらく針葉樹林の中の道を蛇行しながらしばらく進む。やがて女人堂のバス亭を過ぎるとお寺が見えてきて、商店や警察署も見えてくる。高野山と言っても高野町という人口2,600人を超える立派な町だから当然である。ただし、人口の3割ほどはお坊様らしいが。

 8時40分ぐらいに奥之院バス亭に到着。バス代は410円。西鉄電車にはトイレがないので、新今宮駅で買ったココアを飲んでようやく一服できた。

 奥之院入り口へ、神聖な空気に包まれている。

 新明和工業株式会社の慰霊碑「アポロの塔」、初の有人月面着陸を果たしたアポロ11号を模しているそうだ。航空機事業を営む企業として、宇宙産業に対する憧憬の意を込めて建立したとのことである。ちなみに、新明和工業株式会社は、かの辛坊治郎氏を救助した名機US-2飛行艇を製造している会社である。

 しろありの慰霊碑もある。

 ヤクルトの慰霊塔。石のヤクルトが面白いが、亡くなった社員等を慰霊するために建てられているので笑うわけにはいかない。

 日産自動車の慰霊碑は、さすがにそれらしい。工員姿のブロンズ像がもの悲しい。

 企業の慰霊碑群を過ぎると、杉木立の中へ。

芭蕉句と書かれた標柱、側面には「父母のしきりに恋し雉子(きじ)の声」の句。芭蕉句碑高野山雉子塚である。松尾芭蕉も高野山に参詣していたようだ。

古い墓に混じって比較的新しそうな墓もある。

 安芸浅野家墓所。福島正則が改易された後、廃藩置県まで広島を治めた大名の墓所である。鳥居が神仏習合を物語っている。

 結城秀康の石廟。徳川家康の次男で、長男信康が織田信長の命により切腹した後、小牧・長久手の戦いの和睦の条件として豊臣秀吉の養子となる。秀吉に鶴松という実子が生まれると再び結城家に養子に出される。関ヶ原の戦いの後、福井藩の藩主に封じられ越前松平家の祖となる。こちらも鳥居がある。

 肥前島原松平家墓所。島原藩は、島原の乱の原因を作り、後に大名でありながら斬首刑にされた松倉勝家が治めた後、高力氏2代、松平氏5代、戸田氏2代、再び松平氏が戻って8代目で廃藩置県となる。

 筑前黒田家墓所。軍師 黒田官兵衛、後に黒田如水と名乗る黒田孝高を祖とする福岡藩主の墓所。ただし初代藩主は息子の黒田長政。

 浅野内匠頭墓所。「刃傷松の廊下」と言ってもお若い人はご存じない方もいるかも知れないが、播磨赤穂藩藩主である。浅野内匠頭は、江戸城内の松の廊下で吉良上野介に斬りかかり、切腹させられた人物である。この事件が発端となって赤穂四十七士、忠臣蔵の物語が始まる。ちなみに浅野内匠頭墓所は東京都港区の泉岳寺にもあり、忠臣蔵では赤穂浪士が吉良上野介の首をこちらに供えて討ち入りのフィナーレとなる。

 金剛峯寺奥の院御供所。

 仏様が並んでいる。この先の御廟橋から弘法大師御廟になるので、撮影禁止である。また、飲食等も禁止されている。

 御廟橋を渡ると弘法大師御廟の拝殿である灯籠堂が見えてくる。手前には高野山奥院天皇皇族髪歯爪塔があり、霊元天皇(在位期間1663年~1732年)から孝明天皇(在位期間1846年~1867年)までの髪、歯、爪が納められている場所との事である。灯籠堂の内部は広く、万を超えると言われる灯籠の光に包まれていた。何人かの僧侶が中で働かれていた。ここの「貧女の一燈」は千年を超えてその火が守られているとのこと。四国八十八箇所を無事に回れたことの報告とお礼をし、般若心経を唱えてから、御供所へ。

御朱印をいただくため、並んでいると別の窓口に案内してくださった。穏やかな口調の御供所の方に納経帳を渡すと、八十八箇所巡りのことを聞かれたので、自転車で回り、けっこう大変でしたと答えた。すると、優しいねぎらいの言葉をいただいた。やはりご本山は違う。御朱印は300円(令和6年4月1日から500円)、御影は有料で、白黒200円、カラー300円。白黒をいただく。


帰りは、一の橋への道を進む。大名家等の墓が並ぶ中、ビルマ(現ミャンマー)方面戦役英霊納骨塔 パコダがある。「ビルマの竪琴」を思い出す。

豊後岡中川家墓所。荒城の月で有名な竹田市の岡城を居城とし、初代藩主は、中川秀成で1594年から廃藩置県まで13代続いた。なお、日露戦争で軍神となった広瀬中佐も岡藩の士族である。

中の橋。

石田三成墓所。徳川家康と対立し、関ヶ原の戦いで敗北。捕らえられ京の六条川原で斬首された武将である。

薩摩藩初代島津家久、二代光久の墓所。島津家は鎌倉時代から守護職として薩摩、大隅、日向といった九州の南部を治めていたが、江戸幕府の幕藩体制になってからの初代のようだ。島津家久は父の義弘が関ヶ原の戦いで西軍についたため、徳川家康との交渉を行い、本領を安堵された。西軍について、まったく無傷だったのは薩摩藩ぐらいではなかろうか。

松前家墓所。蝦夷地(北海道)唯一の藩だが、初代藩主の松前慶広の時代は大名ではなく蝦夷島主として客臣扱いであった。当時、北海道では米が生産できず、石高が実質0だったためだろうか。その後、旗本待遇を経て五代目藩主松前矩広の時に1万石の大名となった。その後蝦夷地経営を巡り領地を幕府に没収されたり、一時的に移封されたりしたが、14代まで北海道に君臨し最終的には3万石の大名として廃藩置県を迎えた。

 一の橋を渡り、奥之院を出る。後で高野山お墓マップを見ると、見落とした墓所がかなりあった。親鸞聖人や法然上人の墓所があるのも不思議だし、織田信長の墓所と豊臣家の墓所の間に筒井順慶の墓所があるのも面白い。また、石田三成の墓所の後ろに明智光秀の墓所があるのも興味深い。





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